ゲイの主張と宗教


 昔、職場にゲイだという人間がいて、彼の言った一言をふと思い出したんで書いてみるよ。


 彼曰くね、ゲイには二種類いると。ひとつは、まわりにいる男性すべてを恋愛対象とするゲイ。もうひとつは、相手がゲイだという男性だけを恋愛対象とするゲイ。で、その彼は、後者であると主張していたため、普段は別段気にせず会話もしていたし、ゲイであるかそうでないかなど特に意識したことはなかったね。僕はもちろん、その他のまわりの男女ともね。まあそもそもの一人の人として、人なつっこい好かれるキャラだったということもあるだろうけどね。


 この線引きを明確にするってのは、とても重要だと思うんだよね。つまりさ、普通に「ぼくはゲイなんです……」と自己紹介されたらまず気持ち悪いし、まあそう主張しなくともどう見てもゲイである人間ってのは敬遠しちゃうわけだけど、「ぼくはゲイです。しかし、男に興味のない男性は、ぼくも恋愛対象としません」ときっぱり線を引いてもらえたら、ゲイという特殊な人間と付き合う上での距離感がパシッと掴めるんだよね。イレギュラーの攻略法を提示されたようなもんだよ。「恋愛」という価値観以外の「人間」の部分をきっちり直視できるんだよね。コイツはゲイだから人間としても変な奴かもしれない、なんて余計なマイナス・イメージはなく話ができるってことだよ。



 僕は最近オウム真理教の関連本を何冊か読んでいるんだけど、彼らがオウムの価値観(信仰)を世間一般に強要し、巻き込もうとする強引さに、この団体の一番の不気味さがあると感じるんだよね。(まあ本当に狂っていたのは、ごく一部だけで、他の信者は、良くも悪くも、また不幸にも信仰熱心であるが故に踊らされてしまっていただけなのだろうけど)


 一方でオウムの(元)信者の話からは、僕が以前に思っていたほど彼らは特殊な人たちじゃないことにも気付かされるわけさ。普通に喜怒哀楽を持った想像の範囲内の人間らしい人間ってことだよ。だから、彼らが「ぼくはオウムです。しかし、宗教に興味のない人には、ぼくも宗教の話をしません」という線引きの元、活動をしてくれたのであれば、まあそれなりに良い奴もいて、普通に社会に適合してたんじゃないかなと思うんだ。事実そういう宗教だって日本にはあるわけだしね。


 つまりね、人間ってのは、自分がこれまでに見聞きして得た価値観、世界観とまったく違うものが目の前に現れると恐怖を感じるんだろうね。同性愛とか宗教とかは、悪ではないとわかっていても、馴染みのない段違いの世界なので拒否反応を示すわけさ。今まで口にしたことのないものを食べてみるとか、嫌っていた作家の本を読んでみるとか、考えもつかなかったテクノロジーで便利な生活を送ることができる、なんてのとは色合いが違うんだよ。


 まあまとめるとだね、僕らはこの先生きていく上で、数多くの「新しい何か」に出くわして感銘を受けたり、人生が変わったりしていくはずなんだよ。でも、その「何か」をまわりの友人や家族と共有するか否かってのには、細心の注意を払った方がいいだろうね。まあ、共有くらいはすべきかもしれない。でも相手がろくすっぽ興味を示さないのであれば、「終了」と線引きするっていう引き際がポイントなんだよ。自分にとってありがたい「何か」が、他のみんなも幸せにしてくれるとは限らないんだよ。でもね、君という人間そのものには充分な価値があり、君という人間が存在するだけで誰かを幸せにしてることには間違いはないんだよ。そこに余計な付加価値をつけることに執着し過ぎないってことを、頭に叩きこんでおいたほうがいいね。