走る、他人のペース、自分のルール


 平和の森公園ジョギング2週目。遅い時間に弁当を食べたせいか、身体が重かった。汗もそんなにかかなかった。でもまあ、先週よりかはストイックに走れたような気がする。


 国分寺のときは、サレジオ中学の横を通って、新小金井街道をウォーキングし、学芸大学の横といった普通の道路コースを3周走っていた。バスを待つ学生や、自転車でどこかへ向かう大学生、買い物帰りの主婦の隣を息を切らしてただ1人で黙々と通り過ぎる。でも、平和の森公園には、何人もの他のランナーがおり、同じ「走る」という行為(中にはウォーキングだけの人もいるが)を共有でき、なんとなく心地よい。細かい事情は知らないが、そこにいるランナーは、それぞれの目的に合わせて、それぞれのペースで走っている。僕もその中に混じって走る。素人の僕には、特に目的もなく、自分のペースというものもわからない。でも走っているという行為は彼らと変わらない。


 そうしているうちに、僕の持つ走るというイメージが少し変わってきた。これまでは、走るということは、孤独な作業であり、“個”の運動のように思っていた。でも、走っているのは“個”であっても、まわりにいる“他”をどうしても意識してしまう。つまり、自分に都合のよいペースの中で、えっちらおっちら走っていてもしょうがない気がした。他人が速く走っているようなら、それに着いていこうと思うし、そのためにはスピードとスタミナ、そしてトータル的なパワーが必要なのだ。まあ、いろんな考え方があると思うが、僕は専門的に陸上をやったわけではないので、他人のペースに合わせていく中で自分のスタンスを見つける方が手っ取り早い気がしたってわけだ。


 で、他人のペースに合わせるというのは、これがまた結構きついのである。他のランナーに無理についていこうとすると、突拍子もなくふくらはぎが痛み出したり、フォームが崩れたり想定外の不具合が起こる。


 でも、考えてみると、世の中、他人に合わせられる能力というものが相当大切なような気がする。自分の実力があっても、それが他と呼応しなければ意味はない。自分のペースで自分の好きなようにやれる、なんてことはまず存在しないのだ。足が痛かろうが息が切れようが、誰かについていかなければいけない場面は出てくる。というか、ほとんどがそんなシチュエーションにあるような気もする。絶対評価よりも、相対評価に価値がある。


 しかし、そんな中でも、自分の中で決めたルールだけは、絶対に崩してはいけない。僕はその公園に関しては、2周走って1周歩くという自分なりのルールを設けた。そして、一旦走り出したら意地でも2周は走り続けるようにする。もちろん、途中で立ち止まって寝転がりたくもなるし、つらくてばかばかしくてしょうがないと思うこともある。でも、このルールをちょっとでも崩してしまうと、もう何もかもが甘えの中で許されるようになってしまうのだ。つまり、ぐだぐだになって、何でもありになってしまう。そうなると、もうおしまいだ。悪い前例は、絶対につくってはいけない。


 まあ、他人を意識しすぎるのはいいことかどうかは熟考の余地があるかもしれないが、とにかく、もっと速く、そして何よりもタフに走れるようにならねばいけない。


◆平和の森公園デート通.jp