チカちゃん


 チカちゃんの話をする。チカちゃんと聞くと、小さい女の子のように思うかもしれないけど、この場合のチカちゃんというのは、僕がまじめに働こうと勤めに入った会社の先輩のことなんだよね。「チカちゃん」というのは、彼の苗字の一部をとって部長がそう呼んでいた名前であって、僕は当然、苗字にさん付けて呼んでいたんだよ。でもここではまあチカちゃんと書くことにするよ。


 チカちゃんは、まあサラリーマンなわけだが、副職でプロのミュージシャンであり、草野球の審判もやってたんだよね。つまりさ、3つも職業があるわけさ。まあ草野球の審判は職業と言えないかもしれないけど、とにかく収入源が3つあるってことさ。ミュージシャンとしては、いわゆるスタジオ・ミュージシャンで、かつては有名アイドルのバック・バンドとして紅白にも出たってくらいだら、音楽もマジなわけさな。シブい楽器をかき鳴らしてたと思うね。


 で、その会社は一応広告代理店ってことになってるけど、まあ営業の会社で、チカちゃんは営業成績がダントツでナンバー1だったんだよ。だから、多少のわがままもアリで、つまり、「九州でライブがあります」とか「レコーディングです」とかいう理由で1週間会社を休むこともしばしばあったね。


 当時、僕が23歳とか24歳くらいで、チカちゃんは43歳だったと記憶している。で、僕も音楽をかじってたってこともあって、随分よくめんどうを見てもらったんだよね。僕が「働くとは?」みたいなことは、ほとんどチカちゃんから教わったような気もするんだよね。直接教わったこともあるし、見て盗んだものもあるし。僕のこれまでの人生ではあまり「先輩」と呼べる人間はいなかったんだけど、チカちゃんは僕の中での完璧な先輩像として君臨している唯一の人だね。43歳とはいえ、音楽やってる人間だから、見た目も気持ちも若い人だったしね。


 ただ結局、チカちゃんが音楽をやってるところは見たことなければ、聞いたこともなかったな。でも、一度だけ草野球の審判をやってるところは見に行ったことがあるんだ。休日に荻窪の図書館で仕事の資料をまとめる仕事を手伝い、ちょっとしたお小遣いをもらったりもしてたんだけど、そのときに「俺これから審判あるから、仕上がったら球場まで持ってきてくれよ」みたいな風に言われたんだよ。で、確か、上井草の球場に行ったんだよね。時間は16時くらいで、少し陽も傾きはじめ、マウンドのピッチャーの影も足長おじさんみたいにのっぽになりはじめてた時分だったと思うな。僕はただぼおっとチカちゃんが審判をやってるところと、知らないおっさん達が野球をやってるとことを眺めてたんだ。でもまさか、その何年後かに自分もこの球場で野球をするなんて思いもよらなかったけどね。


 その会社を辞めた後も、しばらくは荻窪の図書館で仕事の手伝いをしてたわけだけど、僕が携帯を捨てたことろから音信がなくなったんだ。まあ当たり前だけどね。やがて野球をはじめてどこかでばたりとチカちゃんに逢うんじゃないかなんて思ってたけど、そんな具合にはいかなかったね。東京は広いんだよ。


 まあどこかに貰った名刺があるとは思うけど、もう連絡を取ることもないだろうね。まあ、人との出遭いや別れなんてそんなもんだと思うけどね。