富士山について〜ホールデン・コールフィールド風に


 詳しいことをいちいち説明するのはめんどくさいが、僕は7時36分の新幹線に乗って、名古屋に向かっているわけである。で、途中うとうととしていたのだが、誰かが写メを撮る音がしたわけだ。カシャリとね。写メの音ってすごく歯切れのよい音するよね。機種とかそんなの関係なくだよ。あの音、誰が設定したのか知らないが、僕はもっとみんな褒めてやってもいいと思ってるんだけど、みんなはどう思ってるのかな。ただいま確かにお写真をお撮りしましたって実感できるもんね。あんな一瞬の音で、そんな風に思わせるなんて、それってちょっとしたことだと思うよ。マジな話。まあいいや。とにかく、その音が聞こえた時点でおおよその予想はついたんだけど、予想通りだったね。視界前方に富士山があらわれたわけなんだよ。


 まあ、わざわざ写真を撮るほどでもないにせよ、やはり富士山は富士山なわけさ。日本に住む日本人の僕にとってみれば、「おお」って思っちゃうんだよ。そのへん僕はとても保守的なのかもしれないな。富士山を見て「おお」なんてね。別に恥ずべきことでもないと思うけど。


 で、そこでふと思ったのだが、関西や果ては中国方面に実家があり帰省する人間は、その度に富士山を見て実家に帰り、そして再度富士山を見て東京に戻ってくるわけなのだ。「帰省するときに新幹線から見える富士山がね……」なんて話は聞いたことはないが、実際みんな見てるはずなんだよ。見てないにしても意識はしてると思うな。ちょっと居眠りしてたとしても、目が覚めたときに「あれ、富士山はもう過ぎたかな?」みたいな風に考えるはずだよ。だって富士山なんだからね、どう転んだって。で、やっぱり誰もいちいちそんなことは口にはしないだろうけど、富士山が「休暇」というもののシンボル的なもの――、つまりだね、「東京」と「田舎」というレイヤーを分けるための重要な役割を果たしていたり、日常と非日常の境目に存在するスイッチ的なものとして、新幹線から眺めていると思うんだ。多分だけどね。


 まあ、別に富士山だって、いつもいつも見ていればありがたみなんてなくなるかもしれないけど、上越新幹線を使っている僕にとってみれば、その富士山というものの存在が見た目以上に大きなものに感じられたわけなんだよ。まったくホントの話だよ。だって考えてもみなよ、富士山なんだからね、それがどう転んだとしても。


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