神風が18番を押したとき

◆桑田が現役引退…プロ23年目40歳目前の決断<スポーツ報知(2008.03/27)


 【ブラデントン(米フロリダ州)25日】パイレーツの桑田真澄投手(39)が、現役引退を決意した。オフに右足首じん帯の再建手術を受け、今季の開幕メジャーを目指していたが、パ軍は桑田を開幕メンバーに入れないことを決定。「僕は自然の流れにずっと、任せてきた。流れというものに、逆らっちゃいけない」とプロ23年目、40歳を目前に、ユニホームを脱ぐ決意を固めた。26日のタイガース戦後に会見。今後の登板もなく、静かに現役生活に別れを告げる。


 一大決心をした桑田の表情は、すっきりしていた。「僕の野球人生を振り返って『納得できない』なんて言ったら、怒られる。どれだけ、いい思いをしたか。心の野球を続けてきたけど、もう、心が『いいよ』と言ってるんです」目に涙はなかった。プロ23年目のシーズンが始まる前に、桑田はユニホームを脱ぐことを選択した。
(中略)


 26日のタイガース戦、パ軍首脳陣は桑田に花道として先発を打診したが、断った。「マウンドは、勝つために上がるもの。僕はもう十分、投げましたよ」試合後に正式に引退を表明する。桑田は静かに、こよなく愛した背番号18のユニホームを脱ぐ。


 僕の一番古い野球の記憶は、1984夏の甲子園決勝、PL学園対取手ニ高の延長10回に桑田が3ランを打たれたシーン。その当時はから僕は桑田・清原を応援していて、PLが負けたことでひどくテンションを下げた記憶が残っている。学校のプールから遊んで帰ってきた、ある夏休みの午後の話だ。


 まあ、その後プロに入ってからは巨人のエースだったり、巨人にFAしてきたスラッガーだったりと憎っくき印象しかないのだが、はやり“KKへの憧れ”というものは、僕の中に存在し続けた。この2人は、僕が野球というもに興奮した一番古い記憶を刻み込んだ立役者たちなのだからだと思う。


 そして、豪快なホームランをかっ飛ばす清原も魅力的なのだが、小柄な僕にとっては、やはり桑田に対してのリスペクトが大きかった。クレバーなのかクレイジーなのかわからない人間性も、大きな魅力のひとつだった。


 しかし、巨人の末期やメジャーに行ってからは「はいはい、がんばってね」くらいにしか思ってなかったのだが、いざこうやって引退してしまうことを聞くと、非常にさみしい気持ちになった。「ああ、どうせなら、もっと巨人時代からも応援してやればよかった」とか「200勝できるようにもっと注目してやってもよかったのに」という思いが駆け巡っている。「甲子園は清原のためにあるのか!」という名言があるが、「18番は桑田のためにあるのか!」という言葉を残してもいいくらいの大エースだったと思う。


――甲子園通算20勝3敗。防御率1.55。準優勝2回(1984年春、夏)、優勝2回(1983年夏、1985年夏)。
日本通算、442試合、173勝141敗14セーブ。2761イニング2/3、防御率3.55。最優秀選手1回(1994年)、最優秀バッテリー賞1回(1994年)、沢村賞1回(1987年)、最優秀防御率2回(1987年、2002年)、最多奪三振1回(1994年)、ベストナイン1回(1987年)、ゴールデングラブ賞8回(1987年、1988年、1991年、1993年、1994年、1997年、1998年、2002年)、オールスターゲーム選出:8回(1987年〜1989年、1991年〜1994年、1997年)。
メジャー通算。19試合、0勝1敗。21イニング、防御率9.43。


背番号18――


 とにかく、おつかれさまでした。

■Number vol.700>ナンバーに刻まれた700の名言。


やめる時はね、そういう風が吹くんですよ。神様が背中を押す風を吹かせてくれるはずなんです。
――桑田真澄

05年12月1日号
「僕は野球の神様を信じているから」。清原と同じく「野球の神様」という言葉を使いながら、自らの引き際について考えを明かした。


◆桑田真澄 引退メモリアルSANSPO.COM
◆センバツ 記憶に残る投手<毎日jp


◆桑田真澄オフィシャルブログ


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