「救われた」経験を共有するリスク


 昔ね、あるセミナー合宿に参加したことがあるんだよ。それは、まあ独立していわゆる開業医みたいのをはじめるめのセミナーって思ってくれよ。僕はもちろん開業することなんかに興味はなかったけど、いろいろあって試しに参加させてもらったというか、仕事上潜入させてもらったってわけさ。5日だか7日だかの泊り込みのスケジュールで、費用は30万円くらいだったかな。もちろん僕は1円たりとも支払ってないけどね。そういう特別枠みたいな扱いだよ。


 そこのセミナー参加者は、過去にどこか身体の具合を悪くした人ばかりだったんだ。腰とか膝とか、場合によっては内臓とかね。で、ある治療を続けるうちに回復したので、その治療法を自分もマスターして、他の困っている人のために役立てるよう開業しましょう、みたいな目的の元開催されたセミナーなんだよ。これだけ聞くと宗教じみた印象だろ。僕もそう思ってたし、実際セミナーが行われるホテルに行ってみても、なんだかおどろおどろしいなという雰囲気満載だったわけさ。主催側はみんな白衣を纏ってるし、どっかのなんとかって団体みたいなんだよね。


 でもね、さすがに3日も4日も朝から晩まで、そこで知り合った仲間や先生とともに講義を受けていると「うん、この技術はもっと広めるべきだ」みたいに思うようになっていくんだよ。「なんでみんなこの健康法を取り入れないんだろうか?」って世の中に少し腹立たしさすら感じるくらいなんだ。僕は元々このセミナーには「客」として参加してるわけだが、俄然この治療法を支持すべきだと強く思うようになったんだよね。こういうのを洗脳されてるっていうのかもしれないけどね。



 でね、いよいよそのセミナーも残すところあと2日となったときのことさ。先生から「ではもう明日でみんなも卒業です」みたいな話になって、「あさってから個人で開業しようと思う人は、開業にあたっての道具一式を〇〇万で買い揃えましょう」って話になったわけさ。で、それもあさってから10日以内なら割引でその金額だが、それ以降は通常の値段になるので倍位になります、とかね。まあ僕はどう転んでも開業するつもりはないから、「ほう」という感じで聞いてたけど、他の参加者は「う〜ん、お金は工面できるかな」みたいなことで真剣に悩んでたね。まあさっきまでは、あらゆる病を癒す救世主になれるかのような夢や希望を語りあっていたわけだけど、いきなり現実的な「金」の問題が出てきたわけだから、みんな面喰うのもしょうがないのだろうけどね。でね、その夜だよ。ホテルの廊下でさ、東北の地域から参加してるという27〜28歳位のとてもきれいな人妻がいて、多分旦那であろう人物と携帯でこそこそと話をしてたんだ。「……最初はちょっとお金かかるけど、お客さんついたらすぐ返せるって。いや、違うって、騙されてないって。そんな悪い人たちじゃないって、大丈夫だって。だから全部じゃないって、○万だけでいいって。あとはなんとかするから。……なんで信じてくれんの?」みたいなことを半分泣きながら訴えてたんだよ。ひどい訛りだったから、余計に物悲しく聞こえたね。


 つまりさ、僕が言いたいのはこういうことだよ。きっと人はね、「救われた」って体験をすると、それをどうしても共有したくなるんだろうね。その共有欲は、「おもしろかった」とか「役に立った」とはまったく違う深さと濃さを持ってるわけさ。先に宗教って言ったけど、本当に宗教もこういう価値観のねじれみたいなものがあると思うんだ。だからね、僕は別に宗教を否定するつもりもないし、健康でいたい気持ちはあるんだけど、それを必要以上に他人に共有しないようにしようと、このとき誓ったね。その価値観のねじれみたいなものが露呈してしまうと、信用とか絆みたいなものまで崩れてしまうリスクがあるわけだからね。取り返しの付かないくらいにね。