教育とは強制か自由か?

◆h_ototakeTwitter


t_ishin
人間の本能のままに生きられる人はごく一握りの才能ある特殊人間。普通の人は、本能と正反対のプレッシャーの中でストレスを感じながら生きていかざるを得ない。このストレスに耐えられるようにするのが教育。


1.いま公式RTした橋下府知事の意見、じつは僕が教員時代に最も頭を悩ませた問題でもあった。僕は、子どもたちに自由に発言させ、自由に考え、人と違うことを良しとする教育をしていたけれど、それって僕のエゴなのではないだろうか。はたして、いまの社会はそのようにできているだろうか、って。


2.たしかに橋下府知事が言うように、社会で思うように振る舞える人間はほんのひと握り。多くの人は、誰かの指示を受けたり、誰かの顔色をうかがいながら生きていくことになる。そんな社会に「個性を大切に」と育てた人間を送りだすことは、僕のエゴなのか。結果的に彼らを苦しめることになるのか。


t_ishin
教育は強制ではないとバカな綺麗ごとを言う者が、メディアや評論家に増えてきて、教育現場もそれに流され始めたから、社会のストレスに耐えられない大人が増産されてきているのではないか。教育は強制であるとはっきりと位置付けるべきである。


3.いまの社会に適合する人材を送り出すことを「教育」と呼ぶのなら、たしかに橋下府知事の言うように教育とは強制であるべきなのかもしれない。でも、やっぱり、僕はそう思えなかった。何かを強いることで人を育てるという手法が、僕にはできなかった。それがキレイごとであり、バカと言われても。


4.不登校の子が口にした言葉。「学校には、やらなければいけないこと、やってはいけないことの2つしかない」――じつは、教員も同じだった。「やらなければいけないこと」と「やってはいけないこと」。どちらも、強制。すごく、苦しかった。きっと、子どもたちも苦しいだろうなあと、強く感じた。


5.社会とはそうした苦しいものなのだから、子どもの頃から管理・強制し、そのなかで生きていける人間を育てるべきという考え方もあるだろう。でも、僕にはできなかった。そんな息苦しい社会を「是」と思えない自分がいたから。子どもを、社会における交換可能な歯車として育てることができなかった。


6.一人ひとりが自分らしさを大切に生きていける社会。これが僕の理想。だけど、いまの社会はそうなってはいない。僕は、はたして教育者として、「是」と思えない現代社会に適合する人間を育てていくべきなのか、あくまで僕の理想に基づき、個性を重んじた教育をしていくべきなのか。本当に悩んだ。


7.正解は、ないと思ってる。どちらの手法も、子どものことを思ってのこと。だからこそ、子どもにはどちらの先生にも教わってほしい。「あ、こんな考え方の先生もいるんだ。前の先生と違うな」って。いい意味で“混乱”してほしい。そうすることで、自分で判断する力が養われていくと思うから。


8.だから、教育界には様々な価値観を持った人間がいてほしい。橋下式もアリ。乙武式もアリ。僕が『だいじょうぶ3組』のなかで、赤尾、白石、青柳など、教員の名字すべてに色を入れたのも、そんな思いから。まずは、教員が色とりどりの存在であるべき。教員だって、「みんなちがって、みんないい」。


9.連投失礼しました。みなさんの感想が、続々と寄せられています。これだけ多くの方が教育に関心を持ち、子どもの育ちに興味を持ってくださっていることが、何よりうれしい。僕のつぶやきが、みなさんが社会や教育についての考えを深めるきっかけとなれば幸いです。


 僕も、物事には「正解は、ない」というケースもありうるってことを、最近強く感じるんだ。「正解は、ない」ことが、ひとつの「正解」であったり、正解を導くためのヒントであることが往々にしてあるってことなんだよ。つまり、個々人の解釈の仕方であったり、メリット・デメリットを考慮した上での自信をもった選択や決断であれば、それが正解に成りうるってこと。だから、目の前に並べられた選択肢だけ眺めてても答えなんて出てこないってわけさ。考えて消化しないとダメだってね。


 でもね、「正解は、ない」なんてケースは、少なくとも学校の勉強やテストでマルバツを与えられている子どもには、ちょっと理解しがたいことだと思うんだよね。だって、他人と違うことであったり、少数派であることが「悪」とは言わないまでも、「恥」とされるような子ども文化の中で、どこまで「自分で判断する力」の重要性に気づいてもらえるのかが疑問なんだよね。そもそも「ゆとり教育」ってのは、こういう判断力を養うためのものだったような気がするけど、結果的には、橋下さんの言うように「社会のストレスに耐えられない大人が増産されてきている」わけだからね。判断せずに逃げちゃってるんだよ。



 僕は基本的に乙武さんの考え方に共感することが多いんだけど、この議論に関しては、橋下式に賛同するかな。もちろん、僕自身が乙武式で何もできなかったという反面教師も踏まえてだけどね。理想と現実って、予想以上にかけ離れているんだよね。子どもに限らず、「教育」とか「育成」ってことに関しては殊更ね。だからこそ育てる側にだってストレスがかかるわけで、そられをまとめるには、明確な線引き、つまりは強制的にルール内に囲い込むことが絶対に必要なんだよ。で、僕は強制的に押さえつけられることと没個性ってのはイコールではないと思うんだよね。人って、押さえつけられる不自由さの中で個性という自分らしさを主張したくなるもんなんだよ。逆に、好きにやっていいよという自由な状況下だと、きっちり型にはまったおもしろみのない無難な結果になることが多々あるんだよね。さぐりさぐりやっちゃうわけだよ。また、ルールを無視するも一つの個性みたく、「自由」をなんか勘違いする危険性もあるわけさ。だからね、教育における強制というのは、必ずしも不自由だったり、負の要素しか含んでいないとは限らないってことだよ、僕の経験上ね。ルールをしっかり教えることに他ならないんだ。だから、強制というストレスは新しいひらめきを得るトリガーでもあるんだよ。これが、僕の今のところの「正解」だと思っているんだ。


◆橋下府知事@t_ishinの教育についてのツイをきっかけに乙武 洋匡さん@h_ototakeが「僕が教員時代に最も頭を悩ませた問題でもあった」とツイート<togetter