喜怒楽

■泣けない人<波音<日本経済新聞 夕刊(2007.03/06)


 卒業シーズン。電車の中で目を真っ赤に腫らした袴姿の女子学生に出会うと、うらやましいと思う。この四十年ほど、声を出してないた記憶がない。両親の死に直面してもこみ上げてくるものはあったけれど、人目を気にして泣けなかった。


 民俗学者柳田国男は『不幸なる芸術』の中で、社会から大人の泣き声が消える感情の近代化を「言葉というものの力を過信し、何でも言葉で表現しようとする傾きがあるからだ」と述べる。


 喜怒哀楽の感情表現の中で「哀」が極端に欠落する。歪みを補うには映画館の暗闇で泣くしかないか。


 読んでみて気づいたのだが、確かに僕も「哀」に関する部分が屈折しているように思う。哀しいことがあっても、泣くことはせずに腹を立てる、つまり「怒」るという感情表現で哀しさに対処していることが多い。


 一方で、「泣く」ことに対して、大きなマイナスイメージもある。父親が死んだときでさえ、僕は「泣いてはいけない」という責任感を感じていた。でも、そんな責任感というものはそもそも存在するのだろうか。


 で、結局のところ、「哀」という感情表現が抜けた代償に、人間には「」という状態がつきまとうようになったのかもしれない。哀しいことがあると塞ぎ込んでしまい、喜ぶことも、怒ることも、楽しむことも、いっさいの感情を表表さない状態。


 最近の世の中的には「喜怒楽と鬱」というのが、正確な人間の感情表現のような気がする。感情のバランスというものは、とても大切なのかもしれない。実際僕も、感情のおもむくままに涙を流した記憶なんてここ5〜6年ない。