感動とは


 最近、本や雑誌や誰かのインタビューなんかを目にすると、やたらと「感動」というワードに出くわすんだよね。「感動してもらいたい」とか「感動を与えるんだ」とかね。『もしドラ』でも、野球部と感動を結びつけることから、話が大きく展開していくしね。まあ、「感動」なんてありふれた言葉だし、とても安易に使えるから、その価値も安っぽくなってる節があるのかもしれなけど、やっぱり大事だなと思ったんだよ。感動ってね。


 でね、部活やってたときの話になるんだけど、僕は生徒にしょっちゅう「今日はサッカーあるから、帰って夜観ようぜ」とか「好きな歌手とかいるだろ、いろんな音楽たくさん聴いておけよ」とか言ってたんだよ。ちゅーのも、練習しててしんどいときや試合でよしここで活躍するぞみたいな場面では、「最近観たスポーツでかっこいいと思った選手に自分をダブらせろ」とか「自分の好きな音楽を頭の中で流せるようにしとけ」ってことに応用してほしかったわけさ。で、そういう練習以外で得たものだって、絶対部活に活かされるはずなんだ。確か、沖縄興南高校の我喜屋監督も、そういうようなことを言っていたね。練習の前だったか後だったかに、その日の出来事や気づいたこと、感じたことを1分間スピーチをするようになってから選手が変わったと。ちょっとしたことにも目が行くようになり、気づかいができるうになったことが、チームの結束力や練習の自主性を高めたってね。でもまあ、こういうまわりくどい化学反応とか、身体を使ったりボールを使ったりしない生活面の重要性ってのは、中学生にはすこぶる効き目が薄いってのは最後になってやっと気づいたんだけどさ。


 でもね、僕がここで言いたかったことってのは、「感動」を大事にしろよってことなんだろうなと気づいたんだ。「本田さんかっけー」と興奮するテンションや、好きな音楽を爆音で聴くエクスタシーってのは、つまりは「感動」なわけさ。間違いないよね。このパワーってのは、部活はもちろん、勉強への大いなるモチベーションに変わるから、大事にしろよってことね。感動ってのは、オールマイティなガソリンみたいなもんだよ。否、代替エネルギーって言った方が、現代風かな。感動は、精神的な食事なんだ。


 つまり、まとめるとだね、不景気とかゆとりとか、昨今のマイナスイメージの時世も、「感動不足」から生じてるんじゃないかと思ったんだよ。いろんな刺激に免疫ができたり、一方で、刺激に興味が湧かなくなることで感動がなくなったってね。マンネリよりもさらに深刻なレヴェルのことだよ。



 ところがね、この震災を経て、状況は少し変わった気がするんだよね。Twitter上なんかで多くの人の心を揺さぶっているのは、紛れもなく「感動」なわけさ。誰かの力強い励ましだったり、思いやりだったり、行動力だったりに感動をもらってるんだ。村上龍はそれを「希望」という言葉で表現しているけど、きっと同じ意味だろうね。だからさ、僕らが軽視していたり、忘れかけていた「感動」の大切さを、今一度実感するタイミングなのかもしれないね、今が。