プレッシャーが生まれる瞬間


 だいぶ昔のことだったと思うけど、偶然近くに居合わせた赤の他人がこんなことを話してたんだよ。「野球はプレッシャーと戦うスポーツだという」と。確かに、野球はチーム競技とはいえ、基本は投手対打者の1対1の勝負であり、打球を処理するのも基本1人の野手。ましてやピンチやチャンス時のプレッシャーというのは、観てる人間の想像以上のものがあるわけさ。しかし、その誰かはこう続けたんだ。「でもね、オレはそうは思わない。いや、半分合ってて半分違うって感じかな。つまりさ、野球だけじゃなくてサッカーやバスケや、剣道や柔道だってプレッシャーとの戦いなんだよ。プレッシャーを受けないスポーツなんて存在しないんだよ」ってね。まあ、確かにその通りだけど、多分、当時まだ幼かったのか、僕はこの会話に感銘を受けて、今でもこのセリフを覚えてるくらいなんだ。


 でもね、そのとき僕はこの「プレッシャー」という言葉の意味はそれとなくわかるんだけど、実際問題どういう現象をプレッシャーと人は言っているのかイマイチ掴めなかったんだ。「緊張」とはまた違う「プレッシャー」というものをね。たとえば、野球でチャンスの場面で自分に打席がわまってきたら、それは「チャンス」以外の何ものでもなかったわけさ。チームが勝つとか負けるとかそれ以前に自分がカッコつけられる権利を得たという「嬉しい」場面としか考えられなかったんだよね、当時は。


 でもね、僕もいつしか、その「プレッシャー」というものの意味するところがわかってきて、そして「プレッシャー」に押しつぶされることも多々発生するようになってるわけさ。いつしかね。



 つまりさ、プレッシャーってのは、大きな挫折や失敗を味わって、その恐怖心から生まれるものなんだろうなと。だからね、たいして苦い経験をしてないような子どもはプレッシャーなんて感じないんだよ。それに僕は「たいして練習してないけど、本番ではホームランを打てる」と根拠もなく自信のある子どもだったからなおさらだったろうね。しかしそこで「打てなかった」「失敗してチームが負けた」という経験を得てはじめて、プレッシャーというものが自分の中で生まれてくるんだよね、きっと。


 そう考えるとさ、最近じゃどの学校も子どもが傷つかないよう大事に大事に守ることを第一に考えてるらしく、「ナンバー・ワン」を排除し、「オンリー・ワン」を目指す教育をしてるって聞くよね。それじゃ、悪い意味でたいしたプレッシャーを感じない人間が育っていくのかなと思ったんだ。僕が子どもの頃に感じた「プレッシャーってナンだ?」という疑問にいつまで経っても答えが見つからない危険性すらあるだろうね。変な自信だけ過剰で自分を正当化するけど、いざというときは逃げるも上手な人間ってことだよ。


 プレッシャーってのはどんどん感じていくべきなんだろうね。僕もけっこう「逃げる」ことが上手だから、自戒の念も込めてそう感じているよ、最近。