芥川賞の田中氏の会見を見て


■「石原知事に逆襲」芥川賞の田中氏ノーカット会見(12/01/18)

◆田中慎弥さん「もらって当然」 芥川賞受賞会見<BOOK asahi.com朝日新聞社の書評サイト (2012.01/18)


 第146回芥川賞直木賞日本文学振興会主催)の選考会が17日、東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞円城塔(えんじょう・とう)さん(39)の「道化師の蝶(ちょう)」(群像7月号)と、田中慎弥(たなか・しんや)さん(39)の「共喰(ぐ)い」(すばる10月号)が選ばれた。同日夜の受賞会見で、5回目の候補作での受賞となった田中さんは終始、不機嫌でぶっきらぼうな態度をとりながら、「もらって当然」と受賞の気持ちを表現した。
(以下略)


 芥川賞受賞した田中さんの会見を見て、微弱な不快感とあきれる気持ちが湧いてきたんだよね。この田中さんの態度というか、そこから滲みでている人間性みたいなもに対してだろうね。どうやらこの人は、アルバイトを含め今までに一度も働いたことがないという、母親と2人暮らしの39歳だとか。つまり自分は本を読んで、小説を書くだけという毎日なわけさ。だから、ああ「社会」との接点が乏しい人ってのは、どうしてもこうなっちゃうよな、フォーマルな場では場違いな空気を発してしまうよな、と切なくなったね。で、何かに似てるなと思ったんだけど、ただ生意気な新卒の大学生の主張を聞いてるときと同じ気分だなと気づいたね。別に誰の力も借りなくても自分一人でなんでもできますよ、オレはオレだから構わないでくださいよって過剰な自意識の不快さに似てるなってね。


 でもまあ、僕が不快感を感じならも、それが「微弱」であったのは、そもそもブンガクなんてものに関わる人って、これくらいの反社会的な人間であってもいいだろうってことと、マスコミ的模範回答みたいな画一的な受け答えに飽きちゃってる部分があったからなんだ。だからね、田中さんが今後次々に作品を発表する中でも、常にこれくらいのアウトローな態度をとり続けていくなら、僕はそれなりに一目置くと思うな。アクマで外野の人間としてね。もしくは、そのうちにカドが取れちゃって、ごく普通な受け答えをするようになっちゃってたら、ああ、この人も人の子だな。社会と関わるといわゆる“普通”になっちゃうんだよな、と冷めた目で見るような気もするね。



 つまりさ、自分が関わる人はまっとうであるべきだけど、傍から見るだけでよければ風変わりな人ってのもありってトコかな。会見の様子を見て、なんだコイツ頭おかしいんじゃねーかと思いながらも、よくよく考えてみれば、僕はこの人と仕事をすることも遊ぶこともなく、接点があるとすれば作品を読むことくらいなわけさ。であれば作者の態度なんて少しくらいキテレツで無礼だとしても、作品さえおもしろければ別にいいかなと思えたんだよね。


 でもまあ、僕がこの人みたいになりたいかと訊かれたら、NOと言うけどね。たとえ芥川賞を貰えたとしても、文学的評価もいただけるとしても、働くこともなく四六時中虚構の世界に浸ってるって生活なんて、まっぴらゴメンだね、まじで。

◆「小さな旗」 芥川賞作家、田中慎弥さんエッセー<BOOK asahi.com朝日新聞社の書評サイト (2012.01/20)


 第146回芥川賞を受賞し、記者会見のぶっきらぼうな質疑応答で話題となった田中慎弥さんは、2009年4月から2011年4月まで朝日新聞山口版で「となりのソファ」というエッセーを連載していました。その最終回を、期間限定で公開します。

               ◇

小さな旗 田中慎弥  2011年4月11日掲載

 今日が最後なので何かそれらしいことを書こうと思っていたところへ、東北・関東を襲う地震。作家なのだから、世の中の重大な出来事には背を向けて、こんな非常時になんと不謹慎な、と眉をひそめられるようなことを書かなくてはならない筈(はず)だが、テレビに映し出される、もの言わぬ地震津波の圧倒的な威力を見ていると、自分が何かを言ったり書いたりしたところでなんの意味もないのではないか、と感じてしまう。
 ここで言う、なんの意味もない、というのは、自分が災害に対して何も出来ない、ということだけではない。私は普段、生きるため、自分のためだけに小説を書いている。収入を得るため、自分自身を解放するため、と言ってもいい。その、自分のための、自分なりに力をこめて書いた小説は、災害ほどには人に影響を与えない、と思ってしまうのだ。そんなことは当たり前だが、例えば被災者が読んで、ほんのわずかな時間だけでも苦しみを忘れるような小説が、書けないものか。災害とは全く無縁の爽やかで美しい作品でもいいし、逆に徹底的に悲惨な人間の姿でもいいし、でなければホラーで怖がらせるか、避難所で読むのがはばかられるドロドロの不倫劇で引きずり回すか。
 しかし私はいまのところ、被災した人だろうがそうでない人だろうが、多くの読者を獲得出来るような小説を書けていない。厳しい現実を直接反映させた問題提起型の小説は、現実そのものの前では圧(お)し潰(つぶ)されてしまう。現実を凌駕(りょうが)するか、現実から百歩も千歩もあとずさり、どんどん遠ざかり、逃げ続けるか。どちらにしろコースを一周すれば同じ地点に出る筈だ。そこにしか、小説という小さな旗は立てられない。勿論(もちろん)そのコースは、自分で切り開くしかない。
 とりとめのない連載だったのでとりとめのないまま終わることにする。担当記者に感謝。