「90ミニッツ」感想


 三谷幸喜のお芝居を観てきたよ。やはりガチでスリリングだったよ。


 このお話は事故った息子の父親と、オペを任されている医者のやり取りを描いたものなんだ。まあそもそも出演者は2人しかいないんだけどね。で、父親はその土地の風習に基づき「息子に輸血はできない、輸血なしで手術してくれ」と主張し、医者は当然「輸血は必要、同意書にサインをしてくれ」と主張し、話が前に進まないって設定なんだ。なんか、聞いたことのあるテーマだよね。


 ただね、この堂々巡りの中に、世の中の矛盾や制度に対する皮肉、当たり前の手続きの中にある裏側の意味、それぞれの立場を持つ人間のエゴ、幸せというものの定義、そして死というもへの鋭い言及が散りばめられていたんだよね。こういうのって同じ内容、同じセリフでも、テレビなんかで見るよりずっとパワーがあるよ。とても考えさせられたな。


【以下ネタバレ注意】



 でね、僕がはっとさせられたシーンの一つに、「9歳で死ぬ息子は不幸なのか? じゃあ90歳で死ぬ老人は幸せと言えるのか?」というセリフがあったんだ。たとえ9歳で死んでも、その9年間に両親の愛情を精一杯受けていたならば幸せに死ねるだろう、みたいな(あと、輸血をするともう二度と生まれ変わることができず、輸血をしないままであれば肉体が死んでもまた生まれ変わることができる信仰だという設定も絡めてのセリフだね)。


 たしかにね、一般的に、幼くして亡くなった場合には一様に「とてもとても可哀想」という見方をされるけど、一方で、否、こんなろくでもない世の中の苦労や理不尽さを知らずに済むなら、それに越したことはないんじゃないか、という考え方もできるよね。むしろ、とある信仰や価値観、家族愛などがある中で、それらに満たされながらの死であれば、何歳だろうと幸せなのではないか、とも。そして、考えてしまうよね、死と幸福というものは、どういった位置関係にあるんだろうか……。


 ただね、このお芝居の根本の部分なんだけどね、瀕死の子どもに対して、輸血をするとかしないとか幸せだったか否かとか輝かしい未来や可能性がうんぬんとか、それっぽい正論を並べているのに、まったく話が噛み合わないのは、これらすべてが他人の理論であり、他人の解釈だからなんだよね。産みの親であろうが命の鍵を握る医者であろうが、自分じゃない誰かの「幸せ」に対しての答えなんて出せるわけがないんだよ。もちろん、最終的にはひとつの結論が出てお芝居は終わるわけだけど、僕はその終着点に対してとても居心地が悪かったんだ。う〜ん、これでおしまいなのか、ってね。やっぱり、結局他人同士(親と医者)で出した結論で、自己満足してるんだけじゃないか、ってね。で、さらにそこにオーディエンスである僕の理論も加わってくるから、この話に後味の良い終わり方なんてないんだよ、きっと。


 まあ、そこがこのお芝居自体はすばらしい部分なんだけどね。何が本当の「答え」なのか、何が本当の「幸せ」なのか、って部分で消化不良を残してることね。これがこのお芝居を観たすべての人が一生かけて考えていかなければいけない課題である気がするんだよ。うん、だから是非、君にもこのお芝居を観てほしいな。三谷幸喜だからって、喜劇だけで終わってないってことだよ。


◆90ミニッツ|PARCO劇場|パルコ劇場

◆90ミニッツ
◆90ミニッツ 追加公演

笑の大学」から15年。
三谷幸喜50周年大感謝祭のラストを飾るのは
あの二人の男が舞台上で火花を散らす90分一本勝負のドラマ


今回のテーマは「倫理」です。
それぞれがそれぞれの立場で「正しい」選択をしなければならない。しかし、それは一方から見れば、「やってはいけないこと」であったりします。例えば、職業であったり、あるいは宗教や、家の家訓、国のイデオロギーの違いでも起こりうること。しかし、時と場合によっては、その「倫理」を越えたところで、行動しなければならないこともあるかもしれません。
三谷幸喜が描く二人の男性がそれぞれの「倫理」、つまり「立場」からぶつかり、葛藤する男二人が言葉でぶつかる会話劇です。どうぞご期待下さい!