「特別」が生み出す歪み


 あるときの仕事上でのお客さんで、自称障害者という人がいたんだ。ただし、僕からしてみればクレーマーだったわけだけどね。で、その人の主張としては「自分は障害者なので一人で何もできない。これまでもいろんな例外を認めてもらって、いろんな特別を許してもらえた。だから今回も例外で特別処置をしてもらえないか」というような内容だよ。


 もちろん、終始こんなことばっかり言ってたわけじゃないけど、この人の根本の部分で「自分の主張を他人は絶対にきくべき。何故なら自分は障害者なのだから」という強い固定観念みたいなものが感じられて、すごく気分が悪かったんだよね。



 で、そのとき思い出したのが、学生時代に身体に障害がある同級生がいて、いくつかの特別や例外を認めてもらっていたことなんだ。たとえば寒い冬には制服以外の防寒具を着てても良いみたいな。でも、そのうちにそのコートやジャンパーにアメやガムやゲーム機なんかを隠し持ってくるようになって、でも先生も見て見ぬふりしてたんだよ。だから卒業するまでずっと、誰からも注意されることなくコソコソとルール違反を享受してたんだよ。


 僕は別に障害者の話をするつもりはないんだ。僕が言いたいのは、「特別」や「例外」ってものに慣れてしまうと、人は甘える癖がついてしまうんだろうなってことだよ。で、その甘えってものが、ときにとても大きな価値観の歪みとなって、みっともないってことさ。だからさ、君も「今回は特別に――」みたいな対応を受けたとしても、特別はアクマで特別なわけで、それを当たり前だと思ってしまわないように注意しないといけないってことだよ。